さらわれた民を「1人1ペニー」で買い戻した王。“ブリトン人でもっとも名高い王”マレディズ・アブ・オウァイン

ヴァイキングに連れ去られた自分の国の人たちを、お金を払って取り戻す。
10世紀の終わりのウェールズに、そんなことをした王さまがいました。値段は、1人につき1ペニー。
名前はマレディズ・アブ・オウァイン。あのハウェル善王の孫で、一時はウェールズのほとんどを治めた人です。ウェールズの年代記は、彼が亡くなったとき「ブリトン人でもっとも名高い王」と書き残しました。
なのに、いまではほとんど知られていません。どうしてなのでしょう?
なお、これからお話しする内容は、中世の年代記や伝説などをもとに僕の解釈も加えたものです。物語としてお楽しみください。
善王の孫、次男坊に生まれる
マレディズの父親は、南ウェールズのデハイバースを治めたオウァイン。祖父がハウェル善王です。ちなみに名前の「アブ」は、以前お話しした「アプ(〜の息子)」と同じ意味。後ろの名前が母音で始まるときは「アブ」になります。つまり「オウァインの息子、マレディズ」ですね。
いつ生まれたのかは分かっていません。しかもマレディズは次男でした。父の跡を継ぐはずだったのは、兄のアイニオンです。
アイニオンは勇ましい王子で、父に代わってあちこちへ兵を出していました。ところが984年ごろ、南東のグウェントの貴族たちに、だまし討ちにされてしまいます。
こうして、思いがけず次男坊のマレディズに出番が回ってきました。年老いた父に代わって、国を動かすようになったのです。
北の国を、まるごと手に入れる
そのころ北のグウィネズでは、イドワル・ヴォエルの孫たちが、王の座をめぐって身内で争っていました。いとこ同士で殺し合い、勝ち残ったのがカドワロンという王子です。
マレディズは、このチャンスを見逃しませんでした。
986年、北へ攻め込んでカドワロンを討ち取り、アングルシー島(モーン島)からメイリオニーズまで、グウィネズをまるごと手に入れます。年代記は「たいへんな知恵と策略によって」と書いています。力ずくだけではなかったようです。東のポウィスも、このころ手に入れたと言われています。
ここまでの国取りは、あくまで父オウァインのため。988年ごろに父が亡くなると、デハイバースも、北で手に入れたグウィネズとポウィスも、すべて正式に彼のものになりました。南東のグウェントとモルガンウィグをのぞく、ウェールズのほとんどを一人で治める王の誕生です。治めた土地の広さでいえば、ウェールズの歴史でも指折りの王さまでした。

海の向こうから、黒い軍団がやってくる
ところが、頂点に立ったとたん、試練が次々に押し寄せます。
まずは海からやってくるヴァイキングです。ウェールズの年代記は彼らを「黒い異教徒」と呼びました。
987年、ヴァイキングの首領ゴドフリーが、手に入れたばかりのアングルシー島を襲います。1000人が殺され、2000人が連れ去られたと伝えられています。連れ去られた人たちは、奴隷として売られていきました。
さらに同じころ、ブリテン島じゅうで牛の疫病が広がり、翌年には人々が飢えで大勢亡くなります。海からは異教徒、陸では疫病と飢え。踏んだり蹴ったりです。
「1人1ペニー」の身代金
ここでマレディズが選んだのが、お金で解決することでした。
989年ごろ、彼はヴァイキングに「1人につき1ペニー」を払います。さらわれた人たちを買い戻すためとも、しばらく襲ってこないよう約束させるためとも言われています。

1ペニーといっても、当時は銀貨1枚。いまの小銭とはわけが違います。国じゅうから集めれば、とんでもない額になったはずです。
戦わずにお金を払うなんて情けない、と思うかもしれません。でも、イングランドの王たちもこのころ、ヴァイキングに莫大な銀を払って引き上げてもらっていました。海からいつ襲ってくるか分からない相手と戦い続けるより、民の命を買い戻す。マレディズにとっては、王としての苦い決断だったのかもしれません。
甥っ子が、イングランド人と攻めてきた
ところが、敵は外だけではありませんでした。
990年代のはじめ、亡き兄アイニオンの息子エドウィンが、イングランド人の有力者と手を組んで攻めてきます。本当なら自分が継ぐはずだった国を、叔父さんに取られた。そんな思いがあったのかもしれません。
エドウィンの軍はケレディギオンやダヴェドなど、マレディズの国の南を荒らし回り、聖デウィの修道院があるセント・デイヴィッズまで襲いました。しかも同じ年、マレディズは息子のカドワロンを亡くしています。
マレディズも黙ってはいません。今度は自分がヴァイキングの兵を雇い入れて、南東のモルガンウィグに攻め込みました。昨日の敵を、今日は傭兵に。この時代の王さまは、なりふり構っていられなかったのです。
北の国を取り返される
追い打ちをかけるように、北でも反撃が始まります。
かつて追い出されていたグウィネズの王子たち、メウリグの息子たちが戻ってきたのです。さらに、マレディズの国はまたもひどい飢饉に襲われます。
990年代の半ば、両者はスランゴムという場所でぶつかり、マレディズは敗れてしまいました。この戦いでは、もう一人の甥テウドゥルも命を落としています。
グウィネズの支配は、ここで大きく揺らぎました。苦労して手に入れた北の国は、だんだん彼の手を離れていきます。

名高い王の、さびしい最期
999年、セント・デイヴィッズがまたもヴァイキングに襲われ、司教モルゲネウが殺されます。そして同じころ、マレディズもこの世を去りました。
年代記は、彼の死をこう記しています。「ブリトン人でもっとも名高い王、マレディズ・アブ・オウァインが亡くなった」。
でも、彼が一代で集めた国は、あっという間にバラバラになりました。北のグウィネズは本家のコナンに取り返され、南のデハイバースは「マレディズの息子」を名乗るラインという男の手に渡ります。ラインが本当に息子だったのか、アイルランドから来たニセモノだったのかは、いまも分かっていません。
娘から生まれた、二人の王
それでも、マレディズの血は途絶えませんでした。
娘のアングハラドは、ラウェリン・アプ・セイサルという男と結婚します。このラウェリンが、のちにラインを打ち破って、義父マレディズの国を取り戻しました。
そしてアングハラドが産んだ息子が、グリフィズ・アプ・ラウェリン。ウェールズの長い歴史の中で、ただ一人、ウェールズ全土を治めた王です。さらに再婚した後に産んだブレディン・アプ・カンヴァンは、のちにポウィスを治める王家の始まりになりました。
さらわれた民を買い戻した王の孫が、ウェールズを初めてまるごとひとつにする。歴史って、ときどき粋なことをします。
マレディズ・アブ・オウァインはどんな人物だったのか
マレディズは、「ハウェル善王」や「ロドリ大王」のようなかっこいいあだ名をもらえませんでした。最後には北の国も取り返され、評価はどうしても低くなりがちです。
でも、年代記を読み直してみると、一人の王さまの姿が見えてきます。チャンスと見れば北へ攻め込み、敵だったヴァイキングさえ雇い入れる、したたかな戦略家。そして、さらわれた民のためには、頭を下げてお金を払うこともいとわなかった王。
ヴァイキング、疫病、飢饉、身内の裏切り。これだけの災難を一身に浴びながら、最後まで国を投げ出さなかった。当時の人たちが彼を「もっとも名高い王」と呼んだのは、そんな姿を見ていたからなのかもしれません。
この時代の流れは南北朝時代の記事で紹介しています。祖父の物語はハウェル善王の記事、マレディズが争ったグウィネズ王家の祖先はイドワル・ヴォエルの記事、名前の「アプ」についてはウェールズ王のあだ名の記事もどうぞ。





